台湾ロングステイ 体験談

台湾ロングステイ協会

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台湾は親日の国

台湾は、「非常に親日的である」とよく言われているが、現地で生活して見ると確に皆さん親切で、何処に行っても日本人だと言えば良くしてくれた。

 

外国で生活した経験のある人は誰でも、一度や二度は、必ず不愉快な思いを経験した方は多いと思う。
私の花蓮市の生活は、僅か、1ヶ月余りの短い滞在であったが、滞在中はただの一度も不愉快な思いをした事はなく、考えてみれば、これは確かに驚きであった。

 

花蓮滞在中は本当にお世話になり、忘れ難い印象を帰国した今でも持っている。

 

一方台湾は、私たち日本人が、かつて植民地化していたにも関わらず台湾の人々が今なお日本人に寄せる親日感とは一体何であろうか、としばし考え込むことしきりであった。

 

美侖山と言う小高い丘に似た山が、花蓮市内の海沿いにあり、この山から東は太平洋を一望、西は、花蓮市内を、遠くには南北に走る台湾山脈が霞み見事な景勝地である。

 

この景勝地内に市民の公園や施設が多く設けられ市民の憩いの山にもなっている。この山には、今も旧日本軍施設や防空壕、戦時中の日本軍放送局など(現在は建物だけになっている)、片や市内の至る所に日本家屋、郊外の旧日本軍防空壕等がここにはまだ数多く残っている。

 

花蓮市民の方々が朝夕この山の施設を利用しながら植民地時代の遺物を目にする時、親日的な人々の心の奥底には複雑な感慨がある様な気がしてならない。

 

歴史書を読むと、台湾の人々は、大きく二度にわたり為政者が変わり其の都度、文化的政治的な辛苦を経験している。

 

台湾ロングステイ1895年、馬関(下関)条約により台湾を日本が領有し植民地とした。以後第二次太戦終了まで大凡50年間の統治は、日本化(皇民化)を推し進め、特に日本化(日本語を初めとする日本文化)は、現地の文化、特に原住民の言語文化に深い影を落とし、今では復元が困難になっている少数言語もあると言われている。

 

台湾の400年の歴史の中で、部分的に中国から、或いはオランダ、当時の西欧列強から植民地化されてはいたが、全島に及ぶ植民地化は日本が初めてであった。

 

日本の台湾植民地時代は、日本政府から一見、独立した様に見える行政機関、いわゆる台湾総督府が台湾全土を統治した。

 

特筆されるべきは、明治時代の日本の新進のテクノクラート達によって為政されたことであるが、彼等の政策は、欧米式の当時の最新技術を行政に駆使しながら日本独自の植民地政策を急いだ。

 

中でも後藤新平、伊沢修二、新渡戸稲造、八田興一、等に続く明治政府の心身気鋭の人々は、概ね現地に適した政策を進めていたそうで、当時欧米列強の植民地政策とはかなり異なり、現地の教育とインフラの整備にはかなりの予算を注いでいた。

 

台湾総督府の初期の政策は、その後、紆余曲折は、あったようであるが概ね当初の政策を進めていたが、昭和12−3年ごろから、軍部の台頭による皇民化政策と民心の統制が進み台湾人の日本化と日本語教育の徹底を進め、その普及率の異常さは、当時の軍部の政策の一端を伺わせている。

 

因みに、日本統治時代の日本語教育の普及率(総人口の)は、1920年には2.8パーセント、1930年で12.36パーセントであり、戦中の皇民化教育の中の日本語教育は1941年には57.02パーセント、更に終戦時の1944年には実に71パーセントの台湾人が日本語教育を強制的に学ばされ日本語話者にされているのは注目に値する。

 

台湾の言語学者の論文1988年9月5日「台湾青年」王育徳の論文によれば、「植民地とは、本国の属国であり、本国からの移住地である以上、現地の人々と対等であるはずがない。本国人と現地の人々は対等ではなく差別があり、良い植民地などあろうはずがない」、と言っている。

 

全くその通でありであり反論の余地は全く無いが、反面当時の日本人の中には、彼らの生涯の全てを台湾の発展に、いや台湾人に捧げ心から台湾を愛した為政者や企業家、一民間人も少なくなかったと言われているのも事実である。

 

繰り返し言えば、日本が台湾を植民地にしたが、その反面心身共に台湾の為に尽くした人々がいたことが、今の親日感を支えているのではなかろうかと私は思っている。

 

事実、今回、台湾東海岸を回りその功績を称える碑文を、又其の碑の幾つかは、台湾人の碑の中に並んで確かに見受けられ、碑文にもそのことを書いていた。

 

其の碑文の前に立ち、碑文を読みながら当時の日本人や台湾の人々の足跡を思うとき、この国の人々の寛容さと、往時の日本人の思いにホッとするのは私だけではないと思う。

 

反面、戦後しばらくは、国民党への反感からこの日本語教育(国民党は日本語教育と使用を禁止した)が普及しつづけていたとも言われている。

 

又、戦後の二二八事件の発生により台湾人と外省人を区別するため日本語を使い、或いは日本へ亡命した人、更に1990年代になって和歌を楽しむ(勿論日本語で)人も出現し、台北では「台湾万葉集」が出版されたことは日本人の記憶に新しい。

 

国民党の治世下になると日本語の教育は、その使用も禁止され、北京語を公用語として国語に定め学校教育の中で普及を始めたそうである。

 

おおよそ現在の50−60歳以下の人は、北京語の教育を受け、家庭では台湾語を主とする現地語を使うマルチリンガルなコミュニケーションを強いられていたようで、その実態と詳細は分からない。

 

戦後50年を過ぎ、世代交代が始まり、北京語話者の増加と共に日本語と現地語話者(台湾語や客家語原住民語その他の話者)は、高齢化が進み現地語(日本語話者も)の衰退を招くことも予想され、この事を考えると複雑な思いに耽る時がある。

 

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